下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東山道に属した。延喜式での格は上国、遠国。記紀には准大国とある。下野州(しもつけしゅう)や単に野州(やしゅう)と通称されることもある。現在の関東地方北部(北関東)の中央に位置する。
領域は現在の栃木県とほぼ同じだが、加えて群馬県桐生市のうち桐生川以東を含む。かつて栃木県は下野国と同じ範囲だったが、1959年と1968年に栃木県の一部が桐生市に越境合併されたため、異なるようになった。
古代の毛野国(けぬのくに)のうちの、下毛野国造(国造は下毛野君、現在の栃木県中南部地域)の領域が、令制国の下毛野国(しもつけぬのくに)として成立した。日本書紀によると、崇神天皇の皇子であった豊城入彦命が下毛野君の始祖である。7世紀、北東部の小国那須国造の領域を合わせ、現在までの領域が確定した。
713年に施行された諸国郡郷名著好字令によって、全国の国名が漢字2文字に統一された。その際、下毛野国から「野」をとって下毛国にしようとしたが、下毛の国では印象が悪いため、「毛」をとって下野国となった。読みは「しもつけ」のままである。上野国は「下野」に合わせて決められた。[要出典]
国府は、都賀郡(都加郡)にあった。現在の栃木市田村町にあり、遺跡が発掘されている。
以下に、六国史(記紀)にある下野国下の出来事および下野国に所縁ある事象を記す。
紀元前50年(崇神天皇48年)4月19日 (旧暦) ― 崇神天皇が豊城入彦命に東国を治めるよう命令する。この豊城入彦命が下毛野君の始祖となった。〔日本書紀〕
676年(天武天皇5年)5月7日 (旧暦) ― 下野国司は以下のように奏上した。「所部の百姓が凶年に遭い、飢えのため子を売ろうとしています。」しかし、朝廷はこれに取り合わなかった。〔日本書紀〕
684年(天武天皇13年)11月1日 (旧暦) ― 下毛野君ほか52氏が朝臣の姓を賜る。〔日本書紀〕
687年(持統天皇元年)3月22日 (旧暦) ― 帰化した14人の新羅人が下毛野国に居し、賦田を受けて扶持とし、安んじて生業させた。〔日本書紀〕
689年(持統天皇3年)10月22日 (旧暦) ― 直広肆の下毛野古麻呂が奴婢600人の解放を奏上し、許可される。〔日本書紀〕
698年(文武天皇2年)7月17日 (旧暦) ― 下野国と備前国が赤烏を献上する。〔続日本紀〕
699年(文武天皇3年)3月4日 (旧暦) ― 下野国が雌黄を献上する。〔続日本紀〕
713年(和銅6年)5月11日 (旧暦) ― 下野国ほか相模、常陸、上野、武蔵が輸調するのは元来麻布のであるが、今後は絁も併せて輸調するよう命じられる。〔続日本紀〕
714年(和銅7年)1月25日 (旧暦) ― 下野国ほか相模、常陸、上野、武蔵が輸布調を始め、輸布したい者にはこれを許可することとする。〔続日本紀〕
714年(和銅7年)10月1日 (旧暦) ― 下野国ほか美濃、武蔵、伯耆、播磨、伊予の6国で大風による被害があり、この年の租調が免じられる。〔続日本紀〕
715年(霊亀元年)5月30日 (旧暦) ― 下野国ほか相模、上総、常陸、上野、武蔵6国の富民1,000戸を陸奥国に配する。〔続日本紀〕
716年(霊亀2年)5月16日 (旧暦) ― 下野国ほか駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸7国の高麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を置く。〔続日本紀〕
719年(養老3年)7月13日 (旧暦) ― 按察使が新設され、下野国ほか相模、上野の3国は正四位下武蔵国守多治比縣守の管轄下に置かれる。〔続日本紀〕
737年(天平9年)4月14日 (旧暦) ― 持節大使藤原麻呂から朝廷に報告があった。「陸奥国多賀柵に無事到着し、鎮守府将軍大野東人等と協議し、下野国などの騎兵1,000人を動員して山道および海道を開き、これに畏怖の念を抱いた蝦夷の民衆を懐柔策をもって鎮め、陸奥・出羽各地(玉造柵、新田柵、牡鹿柵、色麻柵、大室駅)まで進み道路整備を行った。今、出羽比羅保許山に駐屯しているが、この先雄勝まで東人は武力制圧すると言っているが、麻呂の考えとしては蝦夷を帰順させて平章したいが、何れとするか勅令を賜りたい。」〔続日本紀〕
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749年(天平勝宝元年)7月13日 (旧暦) ― 諸寺墾田地限が定められ、下野薬師寺は奈良の法隆寺や四天王寺、崇福寺、新薬師寺、建興寺、筑紫の観世音寺などと並んで500町とされた。なお、国分金光明寺は4,000町、大安寺、薬師寺、興福寺、法華寺、諸国分金光明寺は寺毎に1,000町、諸国法華寺は寺毎に400町、定額寺は各寺100町とされている。〔続日本紀〕
754年(天平勝宝6年)11月24日 (旧暦) ― 薬師寺の僧である行信と宇佐神宮の主神である大神多麻呂が呪詛をしたとして下野薬師寺に配流される。〔続日本紀〕
759年(天平宝字3年)9月27日 (旧暦) ― 下野国ほか坂東8国と北陸道4国の浪人2,000人を雄勝城の柵戸とする。また、下野国ほか坂東7国より送られた軍士器杖が雄勝城および桃生城に貯蔵される。〔続日本紀〕
761年(天平字宝5年)11月17日 (旧暦) ― 藤原恵美朝臣朝狩が東海道節度使となり、下野国も遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵等とともにその所管地域となる。船152隻、兵士15,700人、子弟78人、漕ぎ手7,520人を用いる。うち2,400人は肥前国から、200人は対馬国から徴発する。〔続日本紀〕
764年(天平神護元年)2月15日 (旧暦) ― 下野国ほか伊予、隠岐等が飢饉となったのでこれを救う。〔続日本紀〕
764年(天平神護元年)3月4日 (旧暦) ― 下野国ほか上野、三河、常陸、下総の5国で旱魃となったため、この年の調庸が10分の7から8程度となる。〔続日本紀〕